
こんにちはtukasaと申します。
今日は「ソクラテスの弁明」を紹介します。
ただ生きるのではない、善く生きるのだ。
こんな人におすすめ
・ ついつい知ったかぶりしてしまう人。
ソクラテスは知らないということを認められる人こそ、賢者であると教えてくれます。
・ 信念を貫くのに自身がなくなってきた人
ソクラテスは有罪になることにも恐れずに、許しを請うより自分の信念を貫きます。
内容
青年を腐敗させ、国家の信ずる神々を信ぜず、他の新しき神霊を信じていると、いわれのない罪で裁判にかけられるソクラテス。
告発者に対し問答法にて正しき事実を証明する弁論を始める。
ソクラテスが行っていたことは、賢者と思われる人達をみつけては、話しかけ試問し、相手の無知を論証すること。
それは巨大で気品もある軍馬だが、巨大なるが故に動きが鈍い。
そんな軍馬の力を覚醒させる刺す者としての役割と同じように、賢者であり知恵あるものと勘違いしている睡眠者を覚醒させるため。
徳が富から生ずるのではなく、富や人間にとっての一切の善きものは、徳から生ずるということに気づかせるため。
そしてそれらは、神がソクラテスに語りかけたことであり、神の助力者として行っていると言う。
ソクラテスの弁論は裁判員(アテナイ諸君)の判決に影響は与えられた。
ソクラテスの予想に反して僅差だった。
しかし結果は有罪。
ソクラテスは許しを請うことはしない。
「私を放免するもよし放免せぬもよし、いずれにしても私は、決して私の行動を変えないであろう、たとい幾度死の運命に脅かされるにしても」
あくまでも国法を守り正義と信じた道を生きる。
投獄されたソクラテスをなんとか逃げ出すよう説得するクリトン。
しかしソクラテスはそれを拒否する。
一度下された法の決定が何の実行力もなく、私人によって無効にされ破棄されたのでは、その国家は存立して顛覆を免れることができないであろうと、どこまでも国家を想い善く生きることをつらぬく。
裁判から投獄後までのソクラテスを描いた作品。
ページ数は少ないけれども、内容はとても濃い一冊。
point✅
✅知らないということを知るということ。
✅徳は富や名声より生まれるものではない。
✅正義なる行動を曲げない信念
✅より善く生きる
感想
哲学の世界へ踏み入れようと始めて読んだのがこのプラトン作品「ソクラテスの弁明 クリトン」。
当初、青年を腐敗させ、国家の信ずる神々を信ぜず他の神を信仰しているということで、なぜ裁判に?なぜこんな厳しい判決に?と思ったものだけれど、この後のプラトン作品を読んでいき、ソクラテスが告発されたのも、なんとなくわかってきた。
しかしそれはソクラテスが悪いのではなく、時の守護者(政治家)による弾圧のようなものにおもう。
国家のあり方、守護者(政治家)のあり方について対話するシーンでは現国家を否定するようなことも論じていたからな。
私は読む順番を間違えたのかな?
他の作品にてソクラテスが様々な人達に問を投げかけ対話し、相手が知っていると思い込んでいることに対し、実は無知であることを気づかせることをしてきた。
ソクラテスといえばの「無知の知」ですね。
なぜそんなことをしてきたのか?
それはこの作品内で語られている。
最初に読むものだったのかどうか?
プラトン作品をいろいろと読んだ後に、もう一度この作品を読んだとき、なるほど、なるほどと何かスッキリした感覚を感じた。
そして間違いなく言えるのは、この作品の後にパイドンを読むべきということ。
この作品の続きのようなものですからね。
さてこの作品で描かれたソクラテス。
私はその姿の中で印象的だったのは2つ。
・自分が信じる正義、信念、行動をどんな状況になろうとも貫くその姿勢。
・間違った判決であっても、法の決定を私人が破棄しては国家は顛覆を免れないとして祖国を守るた
め、またそれも善く生きることに反するという姿勢。
なかなかできることではないですね。
ソクラテスが国家の守護者となっていたら、どのような国が誕生していたのだろう?
印象的な言葉
されば私は、少くとも自ら知らぬことを知っているとは思っていないかぎりにおいて、あの男よりも智慧の上で少しばかり優っているらしく思われる。
私が滅ぼされるとすれば、私を滅ぼすべきものはこれである。それはメレトスでもなくアニュトスでもなく、むしろ多衆の誹謗と猜忌とである。それはすでに多くの善人を滅ぼして来た、思うにまた滅ぼして行くであろう。私がその最後だろうというような心配は決して無用である。
しかし諸君に従うよりもむしろいっそう多く神に従うであろう。そうして私の息と力との続く限り、智を愛求したり、諸君に忠告したり、諸君の中のいかなる人に逢っても常に次の如く指摘しつつ、例の私の調子で話しかけたりすることをやめないであろう。 『好き友よ、アテナイ人でありながら、最も偉大にしてかつその智慧と偉力との故にその名最も高き市の民でありながら、出来得る限り多量の蓄財や、また名聞や栄誉のことのみを念じて、かえって、智見や真理やまた自分の霊魂を出来得るかぎり善くすることなどについては、少しも気にもかけず、心を用いもせぬことを、君は恥辱とは思わないのか』と。」
徳が富から生ずるのではなくて、むしろ富および人間にとっての他の一切の善きるのは、私的生活においても公的生活においても、徳から生ずる旨を附言することに外ならないからである。
また私を放免するもよし放免せぬもよし、いずれにしても私は、決して私の行動を変えないであろう、たとい幾度死の運命に脅かされるにしても。
もし私を死刑に処したならば、他に再び私のような人間を見出すことは容易ではあるまい。その人間というのは、少し滑稽に響くかも知れぬが、まさしく神から市にくっつけられた者である、 そうしてその市は、例えば巨大にして気品ある軍馬で、しかも巨大なるが故に少しく運動に鈍く、これを覚醒するには何か刺す者を必要とするものなのである。で、思うに、神が私を本市にくっつけたのはこの為であろう、またそれだからこそ私は、終日、到る所で、諸君に付き纏って諸君
を覚醒させ、説得し、非難することを決してやめないのである。諸君、この種の人間は容易にまたと諸君の前に現われないであろう。故に、諸君にしてもし私の説に従う気があるならば、私を愛惜せよ。君は恐らくは、睡眠を破られた仮睡者のように立腹して、私に撃ちかかり、アニュトスの説に従って軽々しく私を死刑に処するかも知れない。が、そうすると諸君はその後の一生を通して眠り続けることになってしまうであろう、神が諸君の上を憂慮して第二の私を諸君に送り給わぬ限りは。
諸君はまた彼らをけしかけて怒号したけれども、私は、投獄と死刑とを恐れて、違法決議をした諸君と行動を共にするよりも、むしろ国法と正義の味方となってあらゆる危険を冒すべきであると信じたのだった。
もとより何かの不足があったために私は有罪となったのであるが、それは決して言葉の不足ではなくて、厚顔と無恥と、諸君が最も聴くを喜ぶような言葉によって諸君を動かさんとする意図の不足である。
それでもなお一つ彼らに頼んでおきたいことがある。諸君、他日私の息子共が成人した暁には、彼らを叱責して、私が諸君を悩ましたと同じように彼らを悩ましていただきたい、いやしくも彼らが徳よりも以上に蓄財その他のことを念頭に置くように見えたならば。またもし彼らがそうでもないくせに、ひとかどの人間らしい顔をしたならば、その時諸君は私が諸君にしたと同様に彼らを非難して、彼らは人間の追求すべきものを追求せず、何の価値もないくせに、ひとかどの人間らしい顔をしているといってやっていただきたい。
一番大切なことは単に生きることそのことではなくて、善く生きることである~中略~
また善く生きることと美しく生きることと正しく生きることとは同じだということ

どこまでも自分の正しき信じる道を貫くその姿。
すばらしい。
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